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Apr 10, 2016

蚕の赤い糸を舐めるのをスペキュレートしたのに!【スプツニ子!の新作】

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スプツニ子!の新作、とうとう見たで!
運命の赤い糸をつむぐ蚕 – タマキの恋

 

 

新宿のグッチの展示の頃から、疑問たっぷりだったわけだが…
https://www.facebook.com/kouta.kanno.9/posts/906614652733908

まず、リアリティがないなぁと思うのは(ただし、リアリティが必ずしもアートとしての良し悪しを決めはしないということは承知しているつもり)、ちゃんとした、もしくは、普通の理系の生物系女子なら、こんなことはしないだろう、ということ。

 

抱いていた淡い期待

オキシトシンは、ホルモンもしくは神経伝達物質。前者は血中で働き、後者はシナプスで作用するもののこと。何れにしても、オキシトシンが受容体に結合して作用する、ということ。

なので、赤い糸を見ても、効かない。
意味がない。

スプレーしたり、飲ませたり、注射した方が効くだろう。
実際、研究・治療用にオキシトシンの点鼻薬が存在する。鼻の上皮から血管に取り込まれると、脳血液関門(BBB)を越えやすく、脳に作用しやすい、という理由で点鼻らしい(未だに論争もあるが、脳に届く、もしくは血中に出てくる、というデータはあるようだ)。BBBがあるので、末梢からは脳に届かない物質が、実は多い。

糸にオキシトシンを含ませた場合、絹を構成する高分子とひとつなぎになった融合タンパクになっているので、実際のオキシトシンの作用を保持しているのかどうか疑問だが(作成した研究者たちは、研究者の矜持としてそういった実験をしたのだろうか?)、唯一、これが生体に作用する方法は、舐めさせる、ということではないか? 舌には、オキシトシンの受容体があるらしいので。

というわけで、映像作品が出来た際には、主人公の女の子は、頑張って赤い服を男の子に舐めさせようとするのではないかと、僕は期待した。あげく、

「服を舐めさせるなんて大胆なことができるのなら、初めから積極的にアプローチすれば良かったんじゃないかしら? でも、この服を作ることでここまで大胆になれたのだから(事実上無駄であった実験に費やした労力はさておき)、まぁ、いっか!」

的な展開になるのか、と思ったが、そんなわけはなかった。

なかなか、我ながら、親切に無駄なスペキュレーションを数ヶ月持ち続けたものである。

 

科学を用いたアートとしてどこに新規性があったのか?

ところで、こんなものを作るために、協力した研究者たちは、なぜ、己の貴重な労力を割いたのだろうか。割こうと思ったのだろうか。どうやって研究計画書を通したのだろうか。理解し難い。特に、若い研究者であれば、時間が惜しいだろうに(上司の命令でやらされたのだろうか)。

また、作品の方向性とか、遺伝子とか、ホルモンとか、タンパク質とか、そういうものについて、スプツニ子!に一言、言わなかったのだろうか。普通の研究者なら、言いたくなるのが必定だと思うが。すでに、アート作品としてもGFPウサギが既出であるし、技術的にもアート作品としても、新規性もない。生物学のことを知らない、アート界隈の評価者にとっては、目新しく映るのかもしれないが。

 

 

遅れてやってきた相対主義?

どうも最近、こういうものが賞賛される傾向にあるなぁ、と思っていたのだが、こんな流れがあるらしい。
スペキュラティヴ・デザインが拓く思考
──設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ

この対談ではバイオもスペキュラティブ・デザインの対象とされ、やはり、この蚕のことが例として取り上げられている。また、長谷川愛の人間がイルカを代理出産する作品のことなども取り上げられている。

上述のように、たしかにこの蚕は、素人のスペキュレーションの産物かもしれないけど、生物学としては、なんら、思索するところも推測するところもない(先述の通り)。長谷川愛の作品に関して、ちょっと路線が違うのかもしれないが、臓器移植のための臓器を豚などの他の生物に作らせるような発想は、普通に研究として、以前からある。

スペキュレーションとは、論文の最後の考察の部分に、まだ手がつけられていない次の目標・課題として、今後の方向性や予想されるメカニズムをスペキュレートするのであって、本来、スペキュレーションが全面に出る論文は、レビュアーに怒られて受理されないし、恥ずかしいものとされている、というのが、僕の認識する常識である。上の論考では、学術論文ベースでも議論がされているので、あえて、学術的常識を言っている。スペキュレーション自体は、必要なことだが、途中段階のものというのは、研究会や学会で見せ合って、議論され、ブラッシュアップされる。だが、いつまでもスペキュレーション止まりで、実証的な成果物を披露できない研究者は、信用されないだろう。どんなに大きな「夢(物語)」を持っている研究者でも、その端緒を、データとしてみているから、スペキュレートするというのが、そもそもの発想の道理だ。つまり、自分や他の研究者のこれまでの歴史から、考えている。

それは研究の話であって、アートとは関係ないんじゃないの?というツッコミが聞こえそうだが、上の論考でも、社会での実装ベースや学術ベースで語っているし、クーリエなどの雑誌でもスプツニ子!は今後の社会でのバイオの重要性を明確に述べているし、twitterなどを検索してみればわかるが、鑑賞者も、科学としての凄さを体感しているだろうと思われるので、言っている。つまり、アートやデザインの文脈であっても、当事者たちはバイオロジーそれ自体を扱っているという認識のようなので、あえて、科学研究の視点から批評してみた。それに、バイオって、スペキュレーションレベルでやると、危険ですよ…

もっと普通に、生物学を勉強したほうが楽しいのでは?

 

 

異分野コラボの先にあったもの

しかし、ここまでくると、もはや昨今のこのような文脈で語られているバイオという言葉は、僕が知っている生物学ではないのだろう、という気がする。
この状態には、既視感がある。

共訳不能だ。
相対主義の結果として、得られたものは沢山あったが、その代わり、分野間でのすり合わせがなされずに来た。尊重するために、お互い、触れない、という文化が生まれた(ように思う)。

それぞれを尊重し、それぞれが自身の分野を深める過程で、一つの言葉の意味や定義が、分野ごとに独自に「進化(or 深化)」を遂げたため、同じ言葉でも、他の分野の人にとっては、違う意味となる。同じ言葉を使っているのに、意味が通じない(共訳不能)。そのような齟齬が生じる。

これが、世に言う蛸壺化である。

それを解消するための、世界の統合的な理解に向けた動きが、学際であったと思うし、人間科学であったと思うし、2010年代前後から盛んに行われた “ソーシャル” な文脈での異分野コラボレーションであったと、思っていたのだが、どうやら、異分野と接する間に、異分野の言葉を、独自の意味として吸収するさらなる蛸壺化というのが、いま起きていることの実像ではないか、という風に、今は思っている。

 

そう思い始めたきっかけの一つは、
BioClubProject Charter にある以下なのだが。
DNAや生物の情報を塩基配列としてデジタル化し、再び出力することの実用化が迫っている

これは、webからDNAオリゴの配列をアルファベットで打ち込んで、翌日にはプライマーが宅急便で届く、よくある業者のサービスとは、違うのだろうか。おそらく20年前からあると思うが(例えばコレ)。いや、もしかしたら、これは、そもそも僕が知っているバイオとは別物の話なのかもしれない。

そう、思った。

 

おそらく、本当の異分野融合や学際を実現させるには、すでに、僕の世代でも手遅れで、学際に対して意識が高いがしかし、自分自身では無理だった世代が、次世代を育てるしかない。ちなみに、僕は学際学部というものが出来てから15年後くらいにそういうところに身を置いた世代。すでに、(上の世代には)諦め感が漂っていたと思う。しかし、学生同士の士気は高かった(SYNAPSEのメンバも、もれなくそうだ)。だが結局、力及ばず。

今後は、研究室の枠にとらわれず、指導教員を二人以上指名して、学際的な一つの研究を成し遂げられるような学位研究実施の枠組みを作るとか、共通設備やラウンジの設計から、考え直していく必要がる(詳しくはこちら)。

 

多少、話が逸れた。
もう一つ、既視感があることがある。それは、ソーカル事件(たいして詳しくないが)。
全般的に、今の流れは、学問の外のソーシャルな世界に、遅れてやってきた2000年以前の相対主義っぽさを感じる(さらにたいして詳しくないが)。

これに関して、菅野の元同僚にしてSYNAPSEメンバの おかべ が、ソーカル事件になぞらえて、以下のような仮説を持っている。

実は、件のバイオアーティスト達は、結構生物学の基本を知っていて、その上で、デタラメなことをしていて、そのうち、評価者や鑑賞者達に「うっそぴょーーーん」と、言うのではないか?
そういう、ハイコンテクストなアートなのではないか。

そう、言うのだ。社会に実装されたコンテクストによるアートだな…

例えば、だが、BCLの初音ミクの遺伝子を組み込んだ心筋の作品 “Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊” について。
そもそも、ミクの遺伝子という、存在しないものをどのように定義し、そのどこに “ミク性” を宿らせることができるのか、ロジックが甚だ疑問なのではあるが、”ミクの遺伝子” と前提されたものをiPS細胞に導入することで、その細胞にミク性が生じる(鑑賞者がそのように感じる)のだろうと推測する。さらに、それが心筋に分化するため、その拍動などの様子から、我々に身近な生命感を得ることができ、一層、ミクの存在をそこに見ることができる、ということなのだと思う。

ただ、結構多くの人が誤解をしているようなのだが(twitterなどで検索する限り)、このiPS細胞が心筋に分化するかどうかは、ミクの遺伝子とは、無関係だ。ミクの遺伝子で心筋化したわけではない。心筋に分化させるための遺伝子は、ミクの遺伝子を導入する際に一緒に導入されている。ただし、大事なことなので繰り返すが、このミクの遺伝子を抜いても、やはり、見た目には何らこの作品と変わらない心筋に分化する。言い方が逆かもしれない。ミクの遺伝子を導入しても、この心筋に分化したiPSには、なんら影響がない(心筋として正常に分化しているので。他の機能については調べてないだろうから不明)。心筋になるかどうかに関しては、このミクの遺伝子は意味がないし、もともと、この細胞がもつDNAの塩基数からしても、ほとんどはiPSの提供元である人物のゲノム由来のものであるので、その提供者性とミク性、どちらが強いかといえば、どう考えても提供者性の方が強いはずだが、いかがか??
(どこまで割合が変われば、「その人の存在感がなくなるか?」というのは、遺伝子治療や今後の生物医学、倫理を考える上でも重要な問題だとは思う)。

ミクの遺伝子は心筋になることには関係がないということを、多くの人が理解した場合、この作品への評価がどうなるのかは、個人的に関心があるが、それよりも、この作品を誤解したまま評価した人たちが「うっそぴょーーーーん」といわれる可能性も、高いのではないか。

 

 

科学とは独立した芸術としての価値

ちなみに、敬愛する林口砂里さんの記事が載っていたので、たまたま目にしたのだが、BCLの福原さんの記事も同じ媒体に載っている。

disってばかりいるようだが(してないとは言わはないが)、彼女自身が実際に実験をしている人であるということは、僕も、実は承知している。生物学者、もしくは、サイエンスコミュニケーション的な立場から、この作品のミスリーディングさを肯定する気にはなれないが、この記事て書かれていることには、納得できる。

「ただここで大切なことは科学的な“事実”と、人の“感覚”にはズレがあるということ。私はこの科学では答えられない感覚こそ、アートで表現できることだと思っているんです。」

確かに、この作品の鑑賞者達の感想や印象は、実際のDNAの働きやDNAの影響を受けた細胞の実像とは、解離しているように思える。その意味では、見事にズレを浮き彫りにしたと言えるし、描きたいことには寧ろ、共感を覚える。

ただ、全体として僕がこの文章で言いたいことは「ミスリーディングな市場を作りつつある、ということには注意をした方がいいのではないか?」ということ。ミスリードされた皆さんの中で、危篤にもここまで読んでくれた方は、もう一度、遺伝子などの「科学的な“事実”と、自分の“感覚”のズレ」について、思いを巡らせていてはいかがでしょうか。

 

さて、
そもそもの、スプツニ子!の映像作品についてだが、ミュージックビデオとして鑑賞すると、むしろ、好きだ。結構クオリティが高いと思う(偉そうですいません)。

ちなみにいうと、過去の作品である「生理マシーン、タカシの場合。」は、コンセプト含め、好きである。素晴らしいコンセプトだと思う。

今回の作品も、上述の様に、いろいろな問題はあると思うのだが、結局、オキシトシン入りの赤い糸は先輩には効かなかったし、主人公自身が綺麗になったから周りの男が付いてきただけで、恋愛に慣れてる先輩は、それくらいでは動じないだけだった、という顛末なのかもしれない。つまり「うっそぴょーーーん」である。主人公も「こんなことで上手くいくわけはない」的なことを、述べている。

この作品をみて「科学すごい!!」とか言ってる鑑賞者は、たぶん、作品の文脈的にも、反省した方が良い。

超越、かどうかは知らないが、エロはある程度以降からは進化の原動力の重要な一つであることは、間違えなく、人間の心の形成にも大きな役割を果たしている。
今読んでるのは、これ。

あと、これもオススメ
Act of Love

 

 

芸術そのものとしての評価

このように、作品に科学が取り入れられてはいるものの、芸術としてのコンテクスト、もしくは、作品が作り出すコンテクストに内包される芸術性、といったものが存在する様に思う。しかし、その場合、この科学性が取り除かれた場合、これら作品は、どれくらい芸術として評価に値するのだろうか?

この点に関しては、僕は芸術家でもないし、芸術批評家でもないし、キュレーターでもないので、言えることは、何もない。しかし、簡単な思考実験はできるように思う。

例えば、アイキャッチ画像にも使ったこの画像。

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実はこれ、オキシトシン入りのインクで描いたラブレターです!

と、僕が言ったとして、世間から面白がってもらえるだろうか。
オキシトシンのあるなしに関わらず、喜んでくれるのは、せいぜい僕のことを好きな人くらいだろう(去年落ちた科研費申請書の裏紙に綺麗でもない字で書いているので、別に嬉しくないと思うが)。

科学的事実と社会や人々の受容のズレというテーマも、政治や、科学技術社会論、生命倫理の分野で散々行われてきた議論である。

技術的な側面としても、iPS細胞は科学サイドで確立された技術であるし、蛍光タンパクの遺伝子を導入した蚕も、作家は作成にコミットしていないようだ。

とすると、いったい、芸術そのものとして、どこを評価するべきなのだろうか?
だれか、教えて欲しい。

僕としては、例えば、一応生物学者である僕から見ても「なんでこんなこと思いつかなかったのだろう」「不思議だなぁ」「そう考えると、新しいものの見方や知見が生まれそうだなぁ」と思えるようなものこそ、力のあるアートだと思えるのだが。もしくは、もっと単純に、見ていて圧倒される、とか。

 

再び、異分野の越境性について

以前のブログでも書いたことだが、異分野を横断することの価値というのは、かけ算のように生成される。各分野の要素のレベルが低いのなら、ただ並べる(足し算)方が、良い結果が得られる。

昨今の異分野横断的試みでみられていることは、自分の咀嚼しやすいように摂取している、ということに過ぎないように思える。酷い場合は、搾取と言っても良い。

融合できるかどうかはともかく、もうちょっと、そのもの自体として、味わってみてはどうか。
それが、おそらく教養といわれるものだと思う。もしくは、異分野へのリスペクト、とも言える。

自分の咀嚼しやすいもの(わかりやすいもの)しか、世間が食べなくなったということか。

評価の仕方(食べ方)も、それにしかり。それに慣ならされた市場も、それなり。そういうことだろう。

 

 

結局、僕が夢見がち(期待しすぎ)だったのか

いろいろ言ったのではあるが、最終的には、みんな勝手にやれば良い。そうするしかない。とも思っている。

ここまで、こんなに長い文章を書いておきながらこんなことを言うと元も子もないのだが(言ったが)、みんな、はなから、見たいようにしか見ないし、聞きたいようにしか聞かない。そもそも、見たいものしか見ない・見えないのかもしれない。理解したいようにしか理解しない。

一ヶ月前とその以前に比べて、いろいろなことがどうでも良いと思えるようになったので(諦め)、いまさらこんなことを書かなくても良かったのだが、以前のブログだけでは中途半端に思えたし、蚕の作品については最終的なモノが出来てからもう一度考えようと思っていたので、書いた。どちらかというと、近しい一部の人たちに対するステイトメント・マニュフェストの延長、のようなもの。

どうでも良い、ということは、寛容になったということでもあるが、真剣じゃなくなった、ということでもある。あまりいろいろな活動をして、いろんな人が集まるところに行っても、僕が得られるものが少なくなってきた、と言っても良い。多くのものが一過性のブームにしか見えなくなってきた(デジャブ感もある)。僕は、ちょっと違ったフィールドに行くだろう(もしくはどこへもいかない)。

 

ただ、ごくたまに、ハッとさせられるような、目が覚めるようなことに、アートを含む他者から気づかされることがあるので、必ずしも外部に対して閉じようというわけでもない。

各専門領域に、個別に面白いものが、まだまだある。

 

追記
ミュージックビデオとしては好きだと思ったわけだが、音楽担当が RAM RIDER だったか。どうりで。

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