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Apr 21, 2017

Parisで目に映ったものたち

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先月、パリにいた。もう、一ヶ月が経つ。
あの高揚感と開放感は、なんだったのだろう。僕にとっては分かっているのだが、言葉で構造化するのが難しいし、めんどくさい。ただの、徒然なる文章である。

 

パリにいた理由は、極めて真面目に研究上の仕事だ。参画させてもらっている研究プロジェクトの国際連携の内容が僕の専門分野そのもので、連携先の担当者がちょっとした知り合いだったので、僕が派遣された。

仕事の内容は、こちらのプロジェクトのHPで少し書いた。

 

科学研究というのは、基本的に英語論文で全て発表され、世界レベルで進んでいる。研究し続けている限りは少なからず世界と繋がっている。もちろん、論文化される前の様々なトレンドというものが水面下ではあり、やはり欧米で研究生活をしていた方がいろんな情報が集まる。そのようなトレンドの研究が必ずしも良いというわけでもないが、場所が変わればリアクションが変わるのは面白い。今回は、パスツール研究所に滞在したが、そこで僕の世話をしてくれた向こうの担当者のElodieは、とても信頼出来る研究者だ。個人的には、明るすぎない静かな感じも付き合いやすい。プロジェクトの枠を超えて、これから先、共同研究者として自分の研究領域(マウスを用いた音声コミュニケーションの研究)について相談したり、世界の情報の整理をする場を長く一緒に運営していけそうな気がする。

ラボのボスのThomasは、明るいパリジャンでとてもフレンドリ。滞在中、Paris流の嗜みを僕が目の当たりするたびに “Welcome to Paris!” と言う。5回は言われたと思う。彼の名前は前から知っていたが、改めて直接プレゼンをしてもらうと、一流の研究者だということがよく分かる。他のメンバにも僕にプレゼンするように促してくれて、贅沢な時間だった。初めて海外のラボのゼミに参加して、急遽プレゼンもしたが、それなりに僕の研究のウケもよかった印象。質問の角度が少し日本と違う。そんなところも面白い。アメリカのSfNで発表した時とも少し違う。いずれにしても、息苦しさのようなものを感じない。

彼はとても自由だ。パリも、良くも悪くも自由だ。旅行案内にはPublicな場では禁煙だと書かれていたが、パリジャンもパリジェンヌも、外ではだいたいどこでもタバコを吸う。あまりそういう絵を想像したことがなかったのだが、パリジェンヌとタバコはカッコイイ。というか、なんでもカッコイイ。ラボ内のディスカッションも自由だ。滞在したラボは、分子生物学や生化学をする人から、行動解析をやる人、インフォマティクスができる人、ソフトウェアを作れる人もいて、バックグラウンドが多様。それぞれの分野が異なるため、それぞれをプロとして尊重しているからなのか、あまり上下関係を感じない。あと、みんな、笑顔のタイミングが良い。

そんな中で、自分の研究の立ち位置を考えられたことは、高揚感があった。

 

パリの街は、どこを歩いても気持ちが良い。東京などと比べても、一つ一つの規模が違う。歴史が違う。洗練されている。滞在三日目、プロジェクトの打ち合わせのため、Pierre and Marie Curie UniversityのJussieu Campusに行くことになった。建築が素晴らしい。セーヌ川のすぐ近くである。

 

ある夜、Thomasが夕飯のあとに、Night Parisの散歩に連れ出してくれた。パーマネントリサーチャで、やたら日本文化に詳しく、アーティストで、マーシャルアーツでもあるGuillaumeも一緒に歩いた。パリは、夜が美しいという。確かに、これが日常の風景とは思えないような歴史と洗練、現代のファッションが入り混じる。すぐ目の前にジェラードがあり、ノートルダムがあり、セーヌ川がある。Thomasは”When I was doing my Ph.D., ” と言って、いろんなことを話してくれる。ここの店はこれが最高とか、学生時代にしていた活動とか、歴史的な哲学者が通ったカフェとか。

北部には治安が悪い地域もあるようだが、中心部を夜中に歩いていても危険は感じない。Guillaumeは、アーティストとして初めてのパフォーマンスを歴史ある教会で行ったそうだ。その前も通った。教会の名は忘れてしまった。彼は、普段脳波を計っている社会脳の研究者だ。彼のHPを帰国してから見てみたが、もっと作品のことを聞いておけばよかった後悔した。Art & Scienceに関する論文ならLEONARDOというジャーナルが良いとも教えてくれた。

このラボでは他にも、よく分からない経歴の人がいる。趣味なのか、プロとしてなのかわからないが、アートやっていたが研究者になったという人が他にもいる。

このBrainBoxとういソフトの背景画像は、アートもやっているという彼女が透明な板の上に絵の具を叩きつけたようなものを3cmくらい隔てて2枚置き、それをカメラを動かしながら動画に撮ったものらしい(実物がラボにあった)。ニューロンの再現画像でもCGでもない。他にも、このプロジェクトのリーダーの男性は、なぜか自分の3Dプリンタをラボに持っていて、いろんな脳を出力している。万華鏡を作ったりもしている。研究なのか趣味なのかはわからない。「日本人ならこれ知ってるか!?」と見せられたyouTubeはasa-chang&巡礼だった。

これを見ながらアーティストの彼女はケラケラ笑っていた。

チームリーダの彼は、Brainhackという、脳の研究をする生物学者とインフォマティシャンやエンジニアの間をつなぐためのコミュニティの、パリ大会のホストもしている。「日本でも開催したら? ホストやりなよ」と言われたが、そんな日が来るだろうか(僕で良いのだろうか)。

 

BrainhackのディカッションはSlackで行われていて、現代的だ。HPもgithubである。Brainhack Parisでは、リハビリやセラピーの研究者でボディペインタでもあるGesine Marwedelという人をゲストに呼んだそうで、ケラケラ楽しそうに笑う彼女がその作品を検索して見せてくれた。いつか生で見て見たい。


Marwedelの作品(The Most10 より)

いろんな人が、自由に、いろんなことをしているものだ。そういえば、いつかの昼食の後、Thomasがキャンパス内でタバコを吸い始めたので「良いのか?」と聞いたら僕にもくれて “Freedom. We are civilized!” と言っていた。彼とは、夜に歩きながら人権の話もした。

 

滞在最後の日、研究所内にあるパスツール博物館に連れて行ってもらった。昔は、自由に入ることができたようだが、いまは予約制で、僕のような共同研究の滞在者か、研究所関係者の伝手できている中高生などしか入れないようだ。これは、テロがあった影響だ。パリの大学や研究所では入り口で荷物検査が徹底されている。さて、僕は小生意気そうな高校生の集団に混じって博物館を案内された。案内してくれる人の解説はフランス語なので、英語のパンフレットを読みながら回った。

アメリカでの滞在と比べて面白かったのは、母国が英語じゃないということだ。ゼミは英語で行われるし、街でもだいたい英語は通じる。研究所で僕が話すときはみんな英語で話してくれる。でもみんな普段はフランス語だ。フランスは移民も多い。移民の人は英語もフランス語もしゃべることができる。フランス人どうしは、僕の前でも、やはり込み入ったことになるとフランス語で会話をする。アメリカでは見ない風景だと思う。なんとなく、若い世代の方が英語はうまい。若すぎると、あまり慣れていない感じもある。ポスドクくらいの世代が一番流暢だろうか。街で話したおじいさんは、あまり英語ができないと言っていた。

パスツール博物館には、とても古い科学器具が展示されている。いまでは、滅菌環境で作業するなど、そんなに大したことではない(グレードはいろいろあるが)。当時は、滅菌環境を得るためにいろんな苦労があったことが、展示されている器具から伝わってくる。まずは、それら器具を用意する必要があったことが、時系列に沿った展示でわかるようになっている。パスツールは、ワクチンの合成・精製をするようになったあたりから、医学に関わるようになったようだ。元は、化学者と言った方が良いようだ。いわゆる物質の左右・キラリティの研究からスタートしている。

他には、パスツールが住んでいた部屋を再現したような展示もあった。豪邸である。部屋の中に、中国製か日本せいかわからないが、漆器のお盆があった。なんとなく、日本製に思える。なぜそんなものがあるのか、解説員の人に聞いてみた。理由は定かではないが、当時、ジパングなどがもつオリエンタルな雰囲気はフランス人に好まれ、プレゼントとしても人気があったため、パスツールに贈られたのではないかとのことだった。

最後に見たのは、Cryptだった。教会の地下などにある墓である。通常、パスツールくらいの人になると国葬扱いでもおかしくないそうだが、遺族の希望で研究所に祀られたらしい。博物館の中は撮影が禁止だったのが残念だ。壁面のタイルで造られた絵や床の模様。全てが、宗教施設のような荘厳さである。墓なので、宗教施設なわけだが、パスツールに対する宗教的とも言える畏敬を感じざるを得ない。常々、科学とはなんなのかと考えるが、最近では、「道」なのではないかと思っている。剣道とか柔道とか、修験道の「道」である。この道を、自分はいったいどこまで極められるのか。

 

博物館からラボにもどり、最後にElodieと今後のことを話して、研究所をあとにすることになった。日本以外の国に、密な共同研究者が出来たことは、これまでに感じたことのない喜びだった。いままではポスドクだったので、自分から積極的に共同研究をすることが出来なかったということもあるが、プロジェクトを通してこんな機会まで得られるとは。派遣してくれた大隅先生に感謝が尽きない。もうちょっと研究の話をしていたかったが、Elodieは娘のお迎えがあるので、それなりに早い時間に別れた。

 

帰国のフライトは明日の夜なので、見られる限りパリを見ておこうと思った。駆け込みで、少し郊外にある Fondation Louis Vuittonに行くことにした。グッゲンハイム美術館などの建物も手がけた、フランク・ゲーリー建築の美術館である。閉館40分前に滑り込み、「今日は特に何も展示をやってないが良いのか?」と言われたが、建築を見るだけでも価値があるだろうと、入館した。ここからは、眺めも良いらしいし。パリは、中心部ほど古い建物ばかりで、郊外の方が近代的な建築が多い。この美術館はパリ中心部の端っこにあるので、郊外を眺めることができる。美しい街並みの中に現れる、小さな森。その中に突如現れる近代建築に身を置くだけでも満足だった。

パリは最高だ。でも、どこにでも闇はある。交通量は多いし、空気は悪い。ラボメンも「日本人みたいにマスクでもするか」と言っていた(日本人のマスクの印象は強いらしい)。街をあるくと、すごく靴が汚れる。足元はタバコの吸殻だらけ。Fondation Louis Vuittonの最寄り駅を通る地下鉄1号線はとても綺麗で、アナウンスが日本語でも流れるが、スリへの注意を喚起している。そのギャップ。車内で何か演説をし始めた人がいるかと思えば、お金を求めてくるし、子供が楽器を上手に弾いているかと思えば、やはりお金を求めてくる。行くあてのない親子の姿も、街で見かける。交通マナーはよく理解出来なかった。翌日空港まで送ってくれたタクシーの運転手もパリの運転は “Crazy” と言っていた。保育園などの数も足りているとは言い難いらしい。都心部では特に大変なようだ。凱旋門の近くの駅で降り、シャンゼリゼを練り歩いた。

一人でシャンパン片手にナイトショーを見て、ホテル近くまで戻り、アジア人のコンビニの店員さんと話してサンドイッチを買い、ホテルに戻ってそれを食べないまま寝てしまった。

翌日は、ホテルの人が空港までのタクシーをbookしてくれたので、時間的にも余裕ができ、散歩して歩くことにした。朝食はいつも通り、とても僕好みなチョコチップパンとフルーツ。ハムとチーズを少し。最後にコーヒーを飲んでルームナンバを黒人のおばあさんに伝える。毎朝会っていた彼女とも、これが最後か。

パスツールのラボメンの一人がエジプト人で、コンコルド広場にあるオベリスクを見てこいと言っていたので、行ってみることにした。彼は日本文化が好きらしく、ひらがなで自分の名前が書けるように教えてきた。このオベリスクは、エジプトから来たものだ。その意味は、よく知らない。オベリスクの前にある噴水は、『プラダを着た悪魔』で、アン・ハサウェイが携帯を投げ捨てた場所だ。

ここからセーヌ川沿いに歩くと、ルーブルに着く。少し遠いが。川沿いはずっと公園になっていて、池などがある。平日だというのに、人々がたくさんいる。本を読んだり、昼寝をしたり、友達と話したり。そのようなことをするための椅子がたくさんある。パリは、それなりに人は多い。人口は200万強だったか。世界の都市の人口は、群抜きで東京が多い。というか、アジアの都市の人口がやたら多い。人口密度も高い。パリも地下鉄など、そこそこ混んで入るが、それでも、余白がある。好んで余白を残しているように思える。

オランジュリー美術館でモネを見た。自然採光が美しい美術館だった。そのまま川沿いを歩いた。途中、日本に仕事メールなど返しながら、ただあるいた。

 

ここは、もう、ルーブルなのだろうか。どこからがルーブルなのだろうか。ここでも、人が池を囲んでいる。

 

ルーブルでランチをした。フランス人は、日本人とわかると日本語で話しかけてくれる人も多い。アジア人の中でも日本人だとよく判別できるな、と思う。

(この会話はそのママ全て日本語で交わされています)

 

とにかく、スケールが違う。

 

足早にルーブルを見た後、「もう中までは見れないな」と思いつつ、ポンピドゥセンターまで歩くことにした。シャンゼリゼの周りも老舗の高級ブランドが並ぶ繁華街だが、この辺りは割と新しいものが並ぶおしゃれストリートなようだ。

パリの街を好きになる理由は、いくらでもあるが、路面に本屋が多いということが挙げられる。時間がないのに、思わず立ち寄ってしまった。

ここで、子供へのお土産を買う。自分の子でもないのに、友人夫妻に出来た子供の成長をインスタで見るのが最近の楽しみなのだ。南国の血の繋がってないおじさんからのフランス土産を買い、足早に店を出る。

次回来た時には、ポンピドゥーの中にも入ってみたいものだ。この建物は、建設当初はその奇抜さから反対の声もあったそうだが、いまではすっかり馴染んでいるように思う。ここは、夜にThomasとも訪れた。

 

 

地下鉄でホテルまで戻った。余裕を持って戻って来たつもりだったが、すぐにタクシーの迎えが来た。僕以外の客も他のホテルで拾うのだが、予定していたよりも予約がたくさん入ったらしい。中国系の運転手は陽気だが、英語、フランス語、中国語で慌ただしく電話連絡をしながら僕の荷物をトランクに積んだ。

あらかじめ買っておいた地下鉄のチケットが余ってしまったから、チェックインのときから世話をしてくれたホテルのお姉さんにあげることにした。衝撃的に美しくチャーミングな笑顔のパリジェンヌで、日本の友人から写真に収めてくるように言われていたが、ついに写真は撮らずにホテルを後にした。

 

降り立った時には「うまく国際連携の話し合いがまとまるか」、「なぜ僕なんかに任せたのか」、など、不安が高まってしかいなかったシャルルド・ゴール空港に、再び着いた。思ったより短かったな。もっといたかった。これから14hのフライトである。実は、出発の日は寝坊をして危なかった(鹿児島からの出張はたいていいつも始発のバスで始まる)。

海外の国際線は、なかなか厳しい。日本では紙袋くらい手荷物にカウントしないのに、しっかりキャリーケースは預けさせられた。機内持ち込み可のサイズなのに、手荷物は2個までと。しょうがないから(何が?)、保安検査通過後に、買いすぎではないかというくらいお菓子を買って、搭乗した。羽田で乗り継いで、あっというまに鹿児島である。パリよりも肌寒い。

 

ちょっと前までパリにいたのに、いまは鹿児島にいる。仙台で生まれて、10年以上東京に住んで、いまは鹿児島に住んでいる。どこにだっていけるし、どこにいたって同じ気もする。どこかに根を張りたい気もするし、いつまでもどこにでも行きたい気もする。鹿児島にも心地よい余白があるし、余白がありすぎる気もする。東京には余白がなさすぎる気もするし、なんでもある気もする。パリには余白がある気はするが、その社会構造は独特である(参照:『社会心理学講義』)。

 

僕はいま、どこにいるのだろうか。

 

*追記
この記事を書いている最中に、またパリでテロがあった。

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